蓮如上人 仰せられ候う「蓮如上人御一代記聞書」に学ぶ
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こちらでは、4つの法話が一つになっています。
一 勧修寺の道徳、明応二年正月一日に御前へまいりたるに、蓮如上人、おおせられそうろう。「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。自力の念仏というは、念仏おおくもうして仏にまいらせ、このもうしたる功徳にて、仏のたすけたまわんずるようにおもうて、となうるなり。他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあずかるなり。そののち念仏もうすは、御たすけありたるありがたさありがたさと、おもうこころをよろこびて、南無阿弥陀仏に自力をくわえざるこころなり。されば、他力とは、他の力というこころなり。この一念、臨終までとおりて往生するなり」と、おおせそうろうなり。
一 一度のちがいが、一期のちがいなり。一度のたしなみが、一期のたしなみなり。そのゆえは、そのままいのちおわれば、一期のちがいになるによりてなり。
一 人の、こころえのとおり、申されけるに、「わがこころは、ただ、かごに水を入れ候うように、仏法の御座敷にては、ありがたくもとうとくも存じ候うが、やがて、もとの心中になされ候う」と、申され候う所に、前々住上人、仰せられ候う。「そのかごを水につけよ」と、わが身をばほうにひてておくべきよし、仰せられ候う。万事、信なきによりてわろきなり。善知識の、わろきと、仰せらるるは、信のなきことをくせごとと、仰せられ候う事に候う。
一 前々住上人、仰せられ候う。「仏法のうえには、毎事に付きて、空おそろしき事に存じ候うべく候う。ただ、よろずに付きて、油断あるまじきこと、と存じ候え」の由、折々に仰せられしと云々 「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。仏法の事は、いそげ、いそげ」と、仰せられたり。
こちらでは、4つの法話が一つになっています。
一 「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といえり。「仏法のうえより、世間のことは時にしたがい、相はたらくべき事なり」と云々
一 人は、あがりあがりて、おちばをしらぬなり。ただ、つつしみて、不断、そらおそろしきことと、毎事に付けて、心をもつべきの由、仰せられ候う。
こちらでは、4つの法話が一つになっています。
一 「往生は、一人一人のしのぎなり。一人一人に仏法を信じて後生をたすかることなり。余所ごとのように思うこと、且つはわが身をしらぬ事なり」と、円如、仰せ候いき。
一 前々住上人、「おどろかす かいこそなけれ 村雀 耳になれぬれば なるこにぞのる」 此の歌を御引きありて、折々、仰せられ候う。「ただ人は、みな、耳なれ雀なり」と、仰せられしと云々
一 蓮如上人、仰せられ候う。「信のうえは、とうとく思いて申す念仏も、また、ふと申す念仏も、仏恩に備わるなり。他宗には、親のため、また、何のため、なんどとて、念仏をつかうなり。聖人の御流には、弥陀をたのむが念仏なり。そのうえの称名は、なにともあれ、仏恩になるものなり」と、仰せられ候う云々
一 いたりてかたきは、石なり。至りてやわらかなるは、水なり。水、よく石をうがつ。「心源、もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々