蓮如上人 仰せられ候う「蓮如上人御一代記聞書」に学ぶ
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一 「人のわろき事は、能く能くみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり。わがみにしられてわろきことあらば、能く能くわろければこそ、身にしられ候うと思いて、心中を改むべし。ただ、人の云う事をば、よく信用すべし。わがわろき事は、おぼえざるものなる」由、仰せられ候う。
一 同じく仰せに云わく、「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり」と、仰せられ候うと云々 されば、『口伝鈔』に云わく、「されば、この機のうえにたもつところの弥陀の仏智を、つのりとせんよりほかは、凡夫、いかでか往生の得分あるべきや」と、いえり。
一 弥陀をたのめば、南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主に成るというは、信心をうることなりと云々 また、当流の真実の宝と云うは、南無阿弥陀仏、これ、一念の信心なりと云々
一 思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることは、なし。此の御思案の道理に同心せば、仏になるべし。同心申すとて、別になし。機法一体の道理なりと云々
一 享禄二年、十二月十八日の夜、兼縁、夢に、蓮如上人、『御文』をあそばし下され候う。その御詞に、梅干のたとえ候う。「梅干のことをいえば、みな人の口、一同にすし。一味の安心は、かように、かわるまじきなり。」「同一念仏 無別道故」(論註)の心にて候いつるようにおぼえ候うと云々
一 享禄二年、十二月十八日の夜、兼縁、夢に、蓮如上人、『御文』をあそばし下され候う。その御詞に、梅干のたとえ候う。「梅干のことをいえば、みな人の口、一同にすし。一味の安心は、かように、かわるまじきなり。」「同一念仏 無別道故」(論註)の心にて候いつるようにおぼえ候うと云々
一 坊主は、人をさえも、勧化せられ候うに、われを勧化せられぬは、あさましきことなりと云々
一 同じく仰せに云わく、「悪人のまねをすべきより、信心決定の人のまねをせよ」と、仰せられ候う云々
一 蓮如上人、御廊下を御とおり候いて、紙切のおちて候いつるを、御覧ぜられ、「仏法領の物を、あだにするかや」と、仰せられ、両の御手にて、御いただき候うと云々 総じて、かみきれなんどのようなる物をも、御用と、仏物と思し召し候えば、あだに御沙汰なく候いしの由、前住上人、御物語候いき。